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下記はテキストです。
最後の晩餐を思い起こす聖餐式
私が所属する教団(聖協団)では、按手礼を受けた正教師が聖餐式の式典を執り行います。正教師は教団で作成した式典礼文を使用します。
教団の式典礼文には、聖餐式に関する項目が掲載されており、式典を実施する者と受ける者の基準が示されています。式典を実施する者は、前述の通り按手礼を受けた正教師となります。一方、聖餐を受けるための条件は、洗礼を受けていることです。洗礼を受けていない場合には、丁寧に聖餐式に参加できるように説明し励まします。
ただし、上記の事柄は教団や教会によって異なる場合があります。聖餐式の制度は、ローマ教会などで2世紀頃から認知されるようになり、幼児洗礼が行われるようになった時期と密接に関連しています。このことから、現在の聖餐式のあり方に異議を唱える説明も存在します。
また、キリストの愛を示す観点から、差別的な行為や選択の線引きをせず、洗礼を受けている受けていない関係なく、聖餐を受けたいと思う人を受け入れる正教師も存在します。
また、聖餐式を執り行わない教会も存在することを覚えていただきたいです。教派や教会の信仰や実践は多様であり、聖餐式を行わない選択をする教会もあることを理解しましょう。
上記の事を踏まえて、私が管理するエクレシアでは、聖餐式を非常に重要視しています。聖餐式は、イエス・キリストの最後の晩餐を再現し、聖書の教えに触れる機会を提供するものです。
私たちは、愛餐としてパンとぶどうを含めることを考えています。これによって、イエスの晩餐の象徴を体験し、イエスの愛と犠牲に思いを馳せることができます。
さらに、洗足の儀式も行うことができればこの儀式によって、イエスが弟子たちに与えた「仕えることの重要性」というメッセージを具体的に体験し、共感することができます。
聖餐式を通じて、私たちはイエスの晩餐とそのメッセージを忠実に再現し、信仰と共同体の結びつきを深めることを目指しています。
歴史的な背景を考える。
歴史的背景は知る由もありません。文献も数少なく当時のものは残されていません。
あるいは文献の管理がされている所がその門を開かない限り知る由はないでしょう。
ただ人間の思考や行動に大きく変化はありませんから大体の予測はつくものです。
そこから解釈しますと次のように想像できます。
聖霊に満ちた弟子たちは、イエスのメッセージを伝えるでしょう。その中心的な内容は、イエス自身についてでしょう。また、悔い改めと洗礼の重要性も説かれたでしょう。当初、聴衆の多くはユダヤ人だったため、悔い改めと洗礼に関する理解は、ヨハネ洗礼者によってユダヤ全土に広がっていたと考えられます。悔い改めと洗礼を受けることによって、イエスを信じる者が「クリスチャン」として位置づけられました。当時は会員制度のようなものはなく、自然にエクレシア(共同体)というグループが形成されました。これはユダヤ人の集まりであったため、ユダヤ共同体として管理者や指導者が誕生しました。また、弟子たちはイエスの業績や最後の晩餐について説明しました。晩餐の儀式は、過ぎ越しの祭りのように、食事を通じて過去の出来事を子どもたちに伝えることで、選民意識を高め、クリスチャンとしての意味を深めるものでした。この儀式では、洗礼の有無は問われず、その場で信じる者は受け入れられるでしょう。日々の生活の中でこの儀式が行われたと推測されます。
さらに伝道が広がると、ユダヤ人だけでなく異邦人にもキリスト教が広がっていきました。この時代は、「支援」と「愛」が必要な時代であり、「平和」と「希望」を求める人々が多く存在しました。クリスチャンたちが語るメッセージ(ロゴス)と、実践する証しとなる愛の姿勢が、多くの人々に希望を与えたことでしょう。
このような考えから、聖餐は洗礼の有無によって線引きされるのではなく、関心を持った人が洗礼を受けてクリスチャンとなり、共同体の一員となることを意味します。そして、仲間と共に食事をする際に聖餐が行われると考えられます。
聖餐は、仲間たちが共に集まり、イエスの受難と復活を追慕し、キリストの愛と犠牲を記憶する儀式です。洗礼を受けたクリスチャンが共に参加し、一体となって聖餐を分かち合うことで、信仰の結束と神の恵みを実感するのです。
以上のような考え方から、聖餐は洗礼を受けることが前提ではありますが、洗礼を受けて仲間となったクリスチャンたちが集まり、共同体の一部として聖餐を執り行うのだと理解できます。
ただし、この解釈は推測に基づいており、具体的な歴史的証拠が存在しないため、確定的な事実ではありません。歴史的背景については、さらなる研究と文献の詳細な調査が必要です。
崇高な時間を過ごすための聖餐
以下の内容を分かち合いたいと考えています。
1. 聖餐の意義と重要性: 聖餐はイエス・キリストの受難と復活を追慕する神聖な儀式です。私たちは聖餐を通じて、キリストの愛と犠牲を深く思い起こし、信仰の根本的な要素である神の恵みと共同体の結びつきを実感することができます。
2. 信仰の成長への貢献: 聖餐は信仰の成長を促進する力を持っています。聖餐を受けることで、キリストの救いの恩恵を個人的に受け入れ、神との関係を深めることができます。私たちは聖餐を通じて信仰の深化と成長を支える場として捉え、その効果を体験するための努力を惜しまないでしょう。
3. 心の豊かさの追求: 聖餐は心の豊かさを育むための重要な手段です。聖餐式に参加することで、私たちは内なる静寂と神への集中を体験し、心の安定と平安を得ることができます。聖餐を通じて、日常の喧騒から離れ、心を清め、真の喜びと満足を見出すための時間を過ごすことを大切に考えています。
私たちはエクレシアの管理者として、聖餐を特別な儀式として大切にし、信仰の成長と心の豊かさを育むための努力を惜しまないつもりです。これらの価値を共有し、一緒に崇高な聖餐の時を過ごすことを願っています。
聖書 main/ルカによる福音書22章7節~23節
sub/ヨハネによる福音書6章
sub/マタイ26章26節~28節
パウロの勧め/コリント人への手紙(上)11章全体
- 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。
- イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。
- 彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、
- 10.イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。
- 11.そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。
- 12.すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」
- 13.彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。
- 14.その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。
- 15.イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。
- 16.あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」
- 17.そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。
- 18.あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」
- 19.それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
- 20.食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。
- 21.しかし見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にあります。
- 22.人の子は、定められたとおり去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。」
- 23.そこで弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた。"
ルカの福音書 22章7~23節 聖書 新改訳2017