福音を如何にして伝えるのか(その1)

5月8日(日)早朝よりスタート

福島ツアーに行った際のお話がほとんどですが、映像も載せていますからご覧くだされば幸いです。


 今回は「福音を如何に伝えるのか」についての導入です。
 仙台宣教センターでは礼拝日に「聖書の教え」を配信しています。通常ではメッセージ(説教)を語るものですが、センターの場合は「聖書の教え」と題して、聖書が私たちに伝えたいのは何か? 「イエスさまはどのような事をされたのか」を学んでいます。
 今日は「福音を如何にして伝えるのか」と題してお話をします。とは言え導入です。
A. 何を伝えるのでしょうか。
B. なぜ伝えるのでしょうか。伝道するようにと聖書に書いてあるからでしょうか。或いは教会から伝道しなさいと言われてなのでしょうか。もしくは、近い将来滅びゆく魂を憂いて伝えるのでしょうか。伝えるきっかけは人それぞれですね。きっと必要性に駆られてと思います。
必要に駆られてと言うならば、人を思う愛によってであってほしいと思います。
 ですが一方で、敢えて言うならば人が抱く「虚しさ」を感じてだとすればどうでしょうか。
人は必ず死を迎えますから、死と向き合う時の思いを先に考えて起きる虚しさです。死が直前で無くても自分の価値観を想定し追い詰める考え方をし、不安や虚しさを抱くものです。まさに哲学的ですね。自分の価値観からは、生き方・人間関係・社会性などから発生する思いです。その虚しさを解決へと導く為に希望を伝える。それが福音と言うものです。
 或いは大切な人を亡くした時に起きる心の虚しさです。大切な方との関係定義は価値観を認め合うと考えます。そのような関係が「共に」と言う大切な人生の共有感が育まれます。そのような方が先に召されるのですから、他者には理解できない寂しさが襲うはずです。クリスチャンの方々は死後に希望を抱いていますので寂しさはありますが、虚しさはないはずです。だけれでも多くの方は寂しさと虚しさが心を支配すると聞いています。そのような想いから脱却するために新たに目線を向けるのです。宗教・サークル・旅行などで出来るだけ人と接すること
 これは歴史で繰り返される人間の気持ちです。哲学や宗教はそれで発生したとされます。
 如何にして死の先を見るのか。考えても、考えても答えがなかったのです。もしこれが答えだと言うものがあっても哲学です。宗教ではイコン(絵)によって想像画にします。それであれが天国だと思うのです。荘厳さ、世的でないデッサンによって人に錯覚を与えたのです。これが神様だと指差されれば手を合わせる。クリスチャンは簡単に偶像崇拝と言いますが、彼らにとっては「希望」なのです。偶像を活用するものと、偶像に思いを寄せる人がいるのです。そこに福音を如何に伝えるのでしょうか。
 私の場合、仏教の習わしで育ちましたが、幸いにも聖書に触れキリストに出会いました。色々と迷い考えましたがクリスチャンとして歩む事を選択しました。
その選択に欠かせなかったのが「イエスさまのお話し」です。これを日本では福音(ゴスペル)と言っているのです。
 聖書には旧約聖書があります。旧約聖書は新しい契約へと誘うものです。ユダヤ教には新約聖書は存在しません。新旧併せたのがキリスト教特有聖典です。
 私は新約に登場するイエスさまに希望を見出したのでした。この希望は、時間をかけ、さまざまな経験を通し、イエスさまの教えを覚え、心に入り、体験を繰り返し血肉となりました。
 今回は、福島に行く機会が与えられました。復興建設の取り組みはどの県よりも遅く、現時点では人の営みがスタートできない地なのだと思いました。住民が戻りたくても戻れない。虚しさが土地に染み込んでいるようにも思いました。
そのような土地に震災遺構請戸(うけど)小学校と東日本大震災・原子力災害伝承館が建ち対比できます。旧と新のコントラストは過去と未来を表すものかと思います。
請戸には人が戻るのか。以前のように生活ができるのかは不明です。それよりも先に広大な土地を国が活用している。それが先行していることになんとも言えませんでした。
 避難されたとされるお墓が立ち並ぶ丘がありました。津波から免れた唯一の場所です。
そこに立ちますと、そこに住んでいた人々のことを思い、先ほどの事を考えてしまうのは私だけでしょうか? 一度、皆様も訪ねてほしいと思います。
10)今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。
11)この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました。
テモテへの手紙 第二 1章10~11節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
 復活されたイエスさまは生きておられます。それがイースターを祝う大切な意味です。聖書もその事を伝えるために伝承しているのです。先にも書いたように人は「生と死」というテーマがあります。特に「死」は人を支配したまま「悲しみ・不安・恐れなど」の感情を焚き付けています。それを先にも書きましたが、イエスさまが解決したと聖書は宣言したのです。それが復活です。
このお話は隣人にすると良いでしょう。それと自らが楽しまれるといいでしょう。「自分のために」と知れば知るほど、その想いは溢れます。その溢れたものを隣人に提供するといいでしょう。無償で受けたなら、無償で与えるべきです。まさにこれが愛です。哲学ではありませんし、宗教でもありません。心のものを提供し分ける働きと考えています。ここから始めたいと考えるのです。